ここ数年、ずっと「自分は何者なのだろうか?」なんてことについて考えていた。私が小学校6年生の頃、今から16年くらい前のことです。
「謝恩会」というものがあった。「お父さん、お母さんに将来の夢を伝えましょう」みたいなコーナーがあって、みんな「何者になりたいのか」を発表する必要がありました。
その時、私は「歌手になりたい。誰かを感動させられるような歌手になりたいです!」と言った。実際、中学1年生の時にヤマハギター教室に通って、超ロンゲ、髪なんて1mくらいあるんじゃないか?みたいな40代くらいの先生に習った。
髪型とか雰囲気的には「MateusAsato」さんという人がめちゃくちゃ近いw
でも、ふと考えると、「何者かにならなければいけない」みたいな固定観念にとらわれていたような気がしてきた。それが最近のこと。
かつて私は何者にもなれない不安を一生抱えて生きていくなら、正しい人生を捨てた方がマシだなんて記事を書いた。この当時は全く違うことを考えていた。
けど、突き詰めれば、実はみんな何者でもないわけであって、何者かになることを目指すこと自体、なんだか馬鹿馬鹿しい気がしてきた。
だからさ、「何者にもなれない不安、焦燥感」みたいなものを感じる必要はないんだよ、たぶん。私が思うに、だけど。
誰でも「何者かになれる」ようになった弊害
私が大学生くらいの頃からだろうか。SNSというものが流行した。
mixiというSNSです。
そこから今の時代、インスタグラムだったり、Twitterだったり、TikTokだったり、最先端のサービスが眩暈がしそうなくらいのスピード感で世の中に出てきた。
その中で大きく変わったこと。それが「誰でも何者かになれる」という点だと思う。それまでは「歌手になるためには事務所に入る」とか「アイドルになるためには地道に養成所で練習する」みたいなことが必要だった。
言ってみれば、それが「参入障壁」になっていたと思う。言い方はめっちゃ悪いけどね。でも、今の時代は違う。
極端な話、そこらへんの公園で泥まみれになっている少年ですら、有名になることができるし、小学生でも可愛い子であればアイドルになることができる。
それも事務所を通さず、誰の力も借りず、ただ「ウェブ社会で発信する」ことでできるようになる。
本当に誰でも簡単に自分という人間を売り出すことができるようになったし、誰でも人気者になれる時代になった。私がかつて一緒にバンドをやっていた人も、SNSで人気が出て、今ではミュージックステーションに出るようになった。
それくらい誰でも人気者になれる時代になったのです。だってさ?覚えてる???ジャスティンビーバーだってYouTubeが最初だよね?そこから世界的なアーティストになったんよ?
昔のジャスティンでもすごいけども。笑
「簡単に」ではないけれど、誰でも人気者になれる時代になったし、誰でも発信できるようになってしまった。でも、そのせいで、そのせいでだよ?
逆に「何者でもない自分」に劣等感を感じるようになってしまったのではないか?とも思ったりする。
最近の小中学生なんて、躊躇なしに自分の顔をSNSに投稿する。まあ私も他人のことは言えないけどw
うん。でも、なんかこう……「早く有名にならないと!」とか「絶対に有名になってやる!」みたいな焦燥感にかられている人が増えたような気がするんですよね。
便利な世の中になったということは歓迎すべきことだと思う。でも、その一方で「何者でもない自分」を受け入れられなくなってしまったような人が増えているような気もする。
でもさ……????
そもそも、うちらって何者でもなくない?っていう。
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何者かどうか?ってのは他者目線でしかない
でね、私は思ったんですよ。「何者かどうか?ってのは他人目線の判断でしかないんじゃないか?」と。
例えば、何だろう……。私は「UVERworld」というバンドが好きなんですよね。で、みんなもたぶん知っているじゃないですか。
私からしたら「一流のバンド」なんですけど、どうだろう?世界からしたらどうだろうか。「世界的な一流アーティストだろうか?」と考えてみると、ちょっと違うかもしれない。
いや、私は大好きだから、「世界でもやっていける」と思っている。でも、本人たちは「世界一売れているバンドである」と言うだろうか?と。
そう考えると、私たち一般人はUVERworldというバンドを「一流の人たちである」と認識するし、何者かであると思っている。
けど、本人たちにとってはわからないところだよね。もしかしたら、「ただの一般人だよ」と思っているかもしれない。こればかりはさ、やっぱり自分自身の考えようと言いますか……。
何者かどうか?ってのは、他人が決めたことであって、自分で決めることはそもそもできないんじゃないのかな?と思うわけです。他人からしたら、「何者かである」というだけであって、角度を変えてみると、全然違う。
例えば、私は綾瀬はるかさんが可愛いと思うけど、本人が「私は綾瀬はるかという一流の芸能人よ?」と思っているかどうかはわからない。
もしかしたら「私、何者にもなれていないんじゃないかな?」なんて思っているかもしれない。
今の時代は何者でもない自分を受け入れがたい。でも、本当は私もあなたも、どこかの誰かも有名でロックでファンキーなミュージシャンも、サッカー選手も「何者でもない」んじゃないかな?なんて思ったりする。
有名な人を見れば、自分に劣等感を覚える。「俺はただサラリーマンをしていて、働いているだけで……」なんて思ったりする人もいる。
けど、別にそんなことを思う必要はないし、自分の生きたいように生きちゃえば良いんじゃないのかな?と思ったりしています。
29歳になったから、考え方も変わってきたのだろうかw
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生きているだけで私たちは何者かになっているかも
何者でもない。私たちは基本は何者でもない。だってさ、例えば私は不動産事業をやったりとか、ウェブもやっているし、その他の仕事もしています。
だから、他人からすれば「頑張っている人」なのかもしれないし、友達には「頑張っていて格好良い」なんて言われたりもする。笑
いつも自己肯定感をあげてくれてありがとう、みんな〜〜〜〜!笑
でも、時々思うんです。「どれだけ稼いでも、結局は何者でもないよな?」と。私が1兆円稼いだとしても、100億円の豪邸に住んだとしても、それはそれだけの話であって。笑
結局、どこまで頑張っても、「自分という人間」でしかなくて、他人の評価がどうであれ、私という人間、いや全ての人たちは「何者にもなれない」のではないか?と思う。
けどさ、それは逆に「生きているだけで何者かである」ということの裏付けでもあるんじゃないの?とも思うわけ。
突き詰めると、人間の人生なんてのは、ご飯食べて、セックスして子供を作って、寝る。それだけだよね。究極はさ、要約しちゃうとみんなこれなのよw
でもって、私たちって良くも悪くも、「唯一無二の人間」じゃないですか。1人だって同じ人はいないよね。双子だって、違う。そう考えるとさ、もう生まれた時点で差別化されているし、生まれた時点で「何者かである」ような気がするのよ。
テレビで有名になっていく人を見て、「あの人に比べたら私は……」と思う人たちがいる。でも、それはそう思ってしまうだけであって、そう思いがちなだけであって、
本当もう……誰もがさ、生まれた瞬間から「何者か」なのだと思う。むしろ生まれた時点で、君は君で、私はまりもで、明石家さんまは明石家さんまで。
むしろ、今現在の「命」に感謝しても良いんじゃないの?とすら思う。今の生活、現状、仕事、それら全てはさ、「どんなもの」や「どんな状態」であっても、私とあなたのアイデンティティであって、誇るべきものじゃないの?なんて思うわけです。
はい。今日はね、ちょっと難しい話をしてしまったような気もします。
みんなは元気にやってるかいいい???私、まりもは今日も元気に「やかんの麦茶」を飲んどりますw
意外と美味しかったよ??
ではでは、まりもでした—✈︎