苦しい、つらい、死にたい。こんな感情を持つとつらい。
でも、意外とつらいのはそこじゃなくて、「自分の苦しさ、苦しみを理解してもらえない」という部分だったりするんじゃないかな。
めちゃくちゃつらいのに、周りの人からは理解されない。
「とりあえず美味しいもんでも食べよ!」なんて優しい言葉をかけてもらっても、余計にイライラする。
「何もわかってないくせに。なんで理解してくれないの?なんで苦しみがわからないの?」と。
でもね、そんなの当たり前よ。自分の苦しさなんて理解されなくて当然。
その前提に立てば、もっと生きやすくなる。私も同じように苦しんだことがあるからさ。
自分が感じる「つらい」に名前はない
私が感じる「つらい」には一応名前が付けられている。
「苦しい」とか「切ない」とか「悲しい」とか。でも、そんな巷に転がっている言葉で表現できるほど人間の感情は色を持った明確なものではない。
私が感じる「つらい」とあなたが感じる「つらい」はまるで違う。
あなたは1億円の借金をして不動産を買うことを「つらい」と思うかもしれない。でも、私は「良い物件を1億円で買えた」と喜ぶ。
そこでも私たちの感情はすれ違う。
あなたは「就職できて良かった」と喜ぶかもしれない。でも、私は「ああ、就職なんてしてしまった」とつらい思いをした。
みんなね、人それぞれのつらいがあるわけであって、それら全てを「つらい」という言葉で一律表現されているわけですよ。
まあ、その方が人間社会で生きていくためには楽というか、便利ですよね。人間1人1人の感情の個別の名前をつけていったら、キリがありませんから。
ただ、だからこそ理解されないわけですよ。自分の苦しさなんてものは、自分にしかわからない感情であって、誰かに理解されるようなものではないのです。
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理解されたいと思っていたあの頃は
実は私も「自分の苦しみ」という得体の知れない自分だけの感情を誰かに理解して欲しい、と思っていました。
何なら親にもそれを求めていたかな。親という身近な存在だと厄介なもので、「わかってくれるだろう?」という甘えが生まれるわけですよ。
「親なのに理解できないわけない!親が理解しようとしていないんだ!」と考えてしまうわけ。
でも、親だって自分とは別の存在なわけですよ。親と自分は違うし、親だからといってこちらのことを完全に理解できるわけじゃないのよね。
自分の苦しみについて、私自身はよくわかっている。みんなも、自分が苦しければ「苦しい」と感じるでしょう?息苦しくなる人もいるだろうし、何となく体調が悪くなる人だっている。
ただ、それが他人に伝わることはないわけですよ。他人にはわからないんですよね。私はね、まあ親を中心とした周りの人たちに「わかってよ!理解してよ!」と強く思っていました。
でも、どれだけ理解してもらおうと思っても、理解されなくて、逆にそれがストレスになっていたんですよね。絶望するほどに身体も、精神もつらい状態。
これを誰かにわかって欲しかったんです。100%とまでは言わないけれど、80%くらいは理解してもらいたかった。けどね、無理だったんですよ。
だから、私は良い意味で諦めたのです。自分の苦しさを理解してもらおうとすればするほど、自分自身がつらくなってくる。
なぜなら、どうやっても理解されないことだと思うから。例えばさ、「空の色はね」と空の色について伝えるとしよう。でも、よくよく考えてみると、空の色はブルーではあるのだけど、どのブルーなのかわからない。
「いや、青空っぽい青だよ」と言えるけど、「じゃあ青空って何?」って話になるし、そもそも「青って何?」となるわけ。
人間の心の中で生じる「自分の苦しみ」も同じことです。何となくわかるような気がするけど、自分の苦しみを数値化することはできないし、明確に伝えることはできないわけです。
だからね、わかってもらおうとすること自体が無理な話なんですよ。
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自分は自分という1人の人間として
結局、人間というものは誰かの感情とか、誰かの気持ちとか。まあ、そういうものを理解することができないのですよ。
特殊なテレパシーがあれば、「あれ」とか「それ」みたいな感覚がわかるのかもしれない。でも、たとえ夫婦であっても、親であっても、理解することはできないのです。
自分は自分という1人の人間であって、それを拡張して、他人にまで理解されようとするから疲れちゃうのよ。
自分の苦しみが理解されないと、何だかつらくなるのはわかる。「こんなにつらいんだよ!なんでわからないの!なんでわかってくれないの!」と思うでしょうね。私も同じでしたから。
でも、無理ですよ。自分は自分という1人の人間として自立して、自分という1人の人間の中で完結させなければいけないような気がする。
他人と理解しあうという基本的な部分を否定するつもりはないよ。素敵なことだと思うし、私は人間だって大好きです。誰かと何か頑張ったりすることも好きですよ。
ただ、「自分の苦しみは理解されないよね?」という前提は持っておいた方が色々楽だと思うのです。どれだけ親しい人でも、なかなかあなたの内面に潜む感情には気がつけないものですよ。
「わかって欲しい」という感情がなくなった時から、随分と生きるの楽になったような気がする。私はね。
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