クソみたいな生き方をしている人もいれば、正しく生き方をしている人だっている。
まあ、人間ですからね。地球ですからね。色々な生き方をしている人がいて、色々な考え方を持った人がいるわけです。
で、今ね、蒲田というまあ東京の中でもあまり治安の宜しくない場所にいまして。
まあサラ金をはじめとした「人を幸せにしない生き方」をしている人たちもいるわけです。
「えっと、ここ東京??」と思ったよね。治安悪すぎて。笑
街にも立ちんぼなんかもいたりした。
でもさ、クソみたいな生き方をしながらも生きている人だっていて、正しい生き方をしているのに死んでいく人たちもいるわけです。
世の中は「一部」からしか見えない
私たちは太陽から照らされている部分しか見ないのよね。
例えば、私たちは今、日本という土地に住んで、日本という国に太陽光が当たる時間内で最大限の行動を起こしている。
でも、他の国はどうだろう?他の国では1日生活するのに精一杯の人たちがいて、生活するために犯罪をおかしたり、生活するために人を殺してしまう人だっている。
私たちは色々なものを見ているような気分になっている。でも、それは傲慢だと思う。
本当はね、何も見えていないんじゃないの?と、私なんかは思う。
例えば、この前は「宮崎県宮崎市にある上野町」に行きました。そこではね、実はまだ違法風俗店が存在しています。ちょっとここらへんもまたブログで報告しますけど、あるんですよね……。
で、今回はそこのおばちゃんと話してみたわけです。向こうは「東国原の奴がさぁ」と、上野町一帯の掃討作戦を実行した元知事を批判していた。
でも、まあこのおばちゃんも「良い生き方」はしていないわけじゃないですか。法律に触れるようなことをしている。
若い女の子を売って、それでお金を稼ぐ。たしかにこれは悪いことです。
ただ、それは一面的であってさ、本当はその人にもいろいろな事情があるわけですよ。
家族を養っていく必要があったりとか、もしかしたら死んでしまった夫の借金を返済するために仕方なくやっていたりするのかもしれない。
一見、「それって社会に必要ないよね?」と思ってしまうような仕事だったり、生き方だったりに見えてしまうものもあるのだけど、
人には色々な事情ってものがある。クソみたいな生き方をしているけれど、それでも生きている人たちはいるんですよね。
でも、そうかと思えば、死んでいく人たちもいて。うん。世の中というか、社会のほんの一部しか私たちは見ない。
その中で生きているわけですけど、何かそれってどうなのかな、って。本当は人それぞれ色々あって、色々な世界があって。うん。
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君の心臓は君が何をしてようとも動くんだ
私の心臓も君の心臓も、君や私が何をしてようとも「ドクンドクン」と動いてくれる。
ゲス不倫をしようとも、道端で野糞をしようとも、借金をしようとも、誰かにいじめられていようと、心臓は動く。
「動いて欲しくないな」と思っている人もいる。けど、動くのよ。
世の中には色々な人がいて、小さな水槽の中に入れられた大きな金魚みたいにもがき、うごめいてる。
私だって誰かに褒められるような生き方はしていない。
いやいや、そもそもだけど、誰かに褒められるような正しい生き方って何さ?
うん。でもさ、まあ幸か不幸か私たちは自分で自分の身体にナイフでも刺さない限りはだいたいある程度長く生きることができるわけです。
だから良かったよね。例えば「ブロガー」なんてものをやっていると、めちゃくちゃ批判される。
ピンク髪の方が亡くなってしまってからは少しだけ中傷が少なくなった?
いやいやいや。笑
そんなことはないのよね。社会にはどんな法律があっても、どんな罰則があってもやってしまう人はいる。
「2人殺したら死刑になる」とわかっているのに殺してしまう人はいる。
うん。だからいるわけですね。ちょっと話は逸れてしまったけれど、そういう人たちから「批判のお声」なんてものをいただくことがある。
その人たちにとっては、私の行動は「悪」だったりもする。見方が変わればまたそれが「善」にもなるんだけどね。
でもね、私がどんな生き方をしていようとも、正しくとも、間違っていようと、生きていられる。
そう思うと、何だか嬉しくなってくるよね。君の心臓も私の心臓も私たちがどれだけ悪人であろうとも動き続けてくれるのだから。
法によって、自らの手によって殺されない限りにおいては、ね。
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どんな生き方でも生きてりゃ良いよなぁ
いやぁ、なんかね、色々な生き方があるなぁと、思ったのですよ。まとまりがなくてごめんね。でも、何か色々考えてさ。色々なことを思ったのよ。笑
人を騙してお金を取る人もいれば、闇金みたいな業者もいる。まあ他にも違法風俗なんかもたくさんあるんじゃないかな、と思います。
その人たちのことを「かわいそうだ」と思うのは勝手だから仕方がない。いや、本人たちだって「嫌だな」と思ってやっているのかもしれない。
でもさ、それでも生きているわけであって、正しく生きて死んでいくよりはどうにか生きていた方が良いよなぁ、と思ったんですよね。
なんかさ、「正しく生きよう」みたいな気持ちがあるじゃないですか?ありません?
正しい仕事をして、正しく家族を作って、正しく生きる。
無意識なのかもしれないけど、そう思ってしまっているようなね、部分があると思う。
でも。そうやって思えば思うほど、何だか首を締め付けられたような息苦しさを感じませんかね。
正しく生きている人はそのままで良いよ。正しく生きて、そこに何のストレスも感じていない人ならそれで良い。
そういう人だっているさ。ただ、そうあじゃない人たちだっているでしょう?普通に働いて、普通の生活をして、普通に幸せになる。
そういうことができない人だっているものなんですよ。だからね、ちょっと変わった私たちみたいなのは「変わった生き方」を受け入れながら、何となくふわっと生きていれば良いんじゃないかね、と思った。
どんな生き方でも生きているだけで良いじゃんか、とね。今、きっとどこかの誰かがこの記事を読んでいるでしょう。
で、その中の1%くらいの人たちは死のうとしているのかもしれない。でもね、ちょっと考えてよ。
「死んで何になるの?」と。今の現状がつらい?そうだよね。いや、全てはわからないけど、逃げたいよね。
でも、どんな生き方でも良いじゃないか、とあえて言いたい。そんな人たちにも生きて欲しいな、と思う。
死んで幸せ、なんてのは死を受け入れる遺族に対する言葉であって、それは今を生きている当事者に捧げられる言葉じゃない。
生きなきゃね。どんな生き方でも。クソみたいな生き方をしていても、生きてりゃ良いんだよ。真面目に生きている人は、そうだね、もっとクソみたいな生き方でも良いから生きていこうね。
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