就活の面接なんかで「長所は正義感が強いところです」なんてことを言っている人が多いと思うんですけど、
正義感って本当に怖いものだよなぁって私は思っているんですよね。
私も昔は正義感が強い方だったと思うんですけど、自分の正義感を振りかざすことによって、結局また人を傷つけてしまうことなのかなとも思っています。
だからね、「自分の長所は正義感の強いところだ」と言い切ってしまうことができる人が嫌いなんだよね。
正義感であふれているTwitterを見てて思うこと
正義感が強いという人が嫌いだなと思うようになったのは正義感で溢れているTwitterを見るようになってからだと思います。
大きな事件が起きるたびに「犯人を許さない」「犯人は死刑にしろ」というような言葉が溢れかえるのがTwitterですが、
そういう言葉たちがまた凶悪な犯罪を生み出しているということに発言をしている人は気づかないのです。
社会の多くの人から認めてもらえなかったり、鋭利な言葉をぶつけられることによって自分の居場所を失ってしまい犯罪に走ってしまう人もいると思うんですよ。
これらの正義感で人を裁こうとする言葉に対して「義憤(ぎふん)」という言葉が使われていたことを目にしたことがあるんですが、まさにその通りだなと思ったのです。
でもどうだろう?
そうやって人のことをたくさん責めたところで自分が幸せになれるわけではありません。
たとえば芸能人の不倫のことについて「不倫をするなんて奥さんの気持ちは考えられないのか?」というような意見をしている人を見ますが
それって結局自分のこととして置き換えて怒っているように感じるんですよね。
不倫報道に著しく腹を立てて怒っている人は自分も不倫をされている可能性があると感じている人か、実際に不倫をされた経験がある人なんじゃないかと思っています。
人の不倫なんて自分には全く関係ないことなのですからね。
自分にとって何のプラスにもならないのに、人に怒りを覚えてそれをどこかにぶつけている。
そうやってエネルギーを無駄に使っているのが、行き過ぎた正義感だなと感じます。
そういう意見ばかりが目立つようになってきたので、どうも最近SNSをなかなか開けないようになってきました。
見ていると疲れてしまうんですよね。
「どうして当事者じゃないのにそんなに怒っているんだろう?」と思ってしまいます。
自分の正義が正しいなんて思ってはいけない
「自分の長所は正義感が強いところです」と言い切ってしまうことができる人って、自分の正義が本当に正しいと心から思っている人のような気がするんですよ。
だって長所だと思っているんだもん。
そういう人がきっとSNSとかでさも自分が正しいかのように色々な書き込みをしてしまうんだろうなって思います。
正義感が強いところは決して長所じゃないと思います。
それによって誰かを断罪するようなことがきっと起こり得るから。
でも自分の正義が正しいと信じて進んだ先でその正義が間違っていることもよくあることなんですよね。
SNSに書き込んだ誹謗中傷のせいで誰かが自殺してしまったりとかね。
自分が正しいと信じ込むことほど怖いことはありません。
意見を持つことは大事だと思うけど、その意見がどんな状況においても必ず正しいと信じ込んではいけないのです。
もしかしたら間違っているかもしれないという気持ちをいつだって持てている人の方が、よっぽど信頼できるし、建設的な話をすることができるのではないでしょうか。
関連記事:どんどん人が離れていく?その理由はなんなのだろうか
「黙っていられない」は正義なのか?
正義感の強い人はよく「悪を見過ごすことができない」というようなことを言います。
そうやってTwitterなどに集められている義憤は見過ごすことができずに発信された言葉たちなのでしょう。
本人たちからしたら「目の前で起こっている喧嘩を止めようとしただけ」くらいな気持ちなのかもしれません。
しかしそうやって仲裁に入ることによって、正義感の強い人達は自分の「気持ちいい」を集めているだけにも見えます。
自分が正しいと思うものを押し付けてそれが正しいと認めさせないと気が済まない人にも見えます。
黙って見守るということの方がずっと大人だし、ずっと平和主義で優しい人なんじゃないかな、なんて最近のネットを見ていると思ってしまうんですよね。
意見を言えること、良い悪いを判断することができることはとても良いことだと思うけど
それを他人に強要するようになったら、それは悪なんじゃないかと私は思うんです。
だから「長所は正義感が強いところです」と言い切ってしまえる人に恐怖すら感じます。
「正しいことが好き」と言ってるように聞こえる。
でもさ人間なんて100%正しさでできているわけじゃないんだよ。
間違えるし正しくないとわかっていてもその選択肢をとらざるを得ない時もある。
そういう矛盾みたいなものを許せないと、その人自身もまた生きていくのが大変なんじゃないかなと感じます。
では今日はこのあたりで。