人生に悩む君へ

残された遺族の僕は残された悲しみを振り切って生きる

自殺でも他殺でもそうだけど、世の中には死んでしまった人がいて、死んでしまった人がいるからには残された人たちがいるはずなんです。

私みたいな遺族という存在がいるわけですよ。残された側の私が記事を書いてみるなんて、何か嫌な感じがするかもしれない。

別に私は事件に巻き込まれたタイプの遺族ではないから、そういう意味で言えば、私が「遺族」という言葉を使うのもどうなのかな?と思った。

でも、やっぱり大切な人が突然、目の前からいなくなるということには、それだけ大きな意味があるわけですよ。

残された遺族として、私が書いてみたいことをここに綴っていくね。少しだけになってしまうけれど、お付き合いください。

 

残された側の人間を忘れてしまいがちだけど

 

亡くなってしまった人のことを誰もが報道する。まあ、私の父親の場合は報道も何もたぶん急死というだけだから報道ではないのだけど。

亡くなった人に対してコメントをするじゃないですか。「いやあ、本当に良い人でした」とか「今頃天国で不思議な顔をしているんじゃないですかね」みたいなことを言ってくる。

私の家に父親の知人たちが来てくれた時にも、99%の人が「父親との思い出」を語っていました。まあそりゃ当然です。

その人たちが知っているのは父親であって、私ではないわけですから。

マスコミの報道でもさ、特集が組まれるじゃないですか。遺族ではなくて、どちらかと言えば有名人の「」を扱う。

 

事件で死んでしまった場合も、死亡した本人に関して報道するわけですよ。

でも、残された遺族からすると、これから生きていかなきゃいけないのは自分たちであって、スポットライトの当たっている「故人」ではないんですよね。

当事者になってみると、そこに凄く大きな違和感を感じました。第三者としてニュースを見ている時には何とも思わなかった。

ああ、この人は死んだんだ。どんな人生だったんだろうな?」くらいにしか思わなかった。

残された遺族のことなんて大して考えなかったし、マスコミ側も世間も望んでいないように見えた。

マスコミは世の中の情報を切り取って伝える。それは大事なことなのだけど、「切り取られた事実」にこそ、本当の紫色というか、ドロドロとした「遺族の虚無感」みたいなものが内包されているような気がしてしまう。

残された側のことなんて報道されないけど、残された遺族だって、生きていかなきゃいけないんですよね。

何があっても、家族がどんな死に方をしていたとしても。私の父のように車の中でそっと無くなっていたとしても。

関連記事:父が亡くなると私たちは後悔の海に溺れそうになるけど、それで良いんだ。

 

残された遺族の時間は「あの時」で止まっている

 

私は母と「父親の死」についてあまり多くのことを話さない。いや、意図的に話さないわけでもないのだけど、何となく話したくないような感じがある。

だからなのかな。私の中での時間は「あの時」で止まっているんですよね。あの時で止まっていて、未だに不思議な感じがする

乗り越えているのか?と聞かれるとちょっと困ってしまうかもしれない。だって、きちんと向き合えてはいないだろうから。

 

残された遺族が1年後、2年後、10年後に生きている姿をみると、「きっとこの人はつらい過去を乗り越えたんだ」と思うだろう。

私もそう思っていました。テレビのドキュメンタリー番組があれば、「この人はあの時を乗り越えて今があるんだな」と思っていた。

 

でも、実はね、これってちょっとだけ違うと思うんですよ。私をはじめ、多くの残された遺族は乗り越えていないわけですよ。

あの時のあの現実」みたいなものを避けてきて、何となく忘れていて、何とかなく放置して、うん。

放置しているだけで、ちゃんと向き合えているようなわけではないような気がする。だって辛すぎるじゃないですか。

自分の親が死んでしまったという事実をじーっと見つめて生きていくなんてことはできない。だから、私の場合は亡くなってしまった時からずっと逃げています。

残された遺族は向き合っているわけじゃない、だから、今回の記事のタイトルも「振り切って」という言葉をつけてみた。

関連記事:父親が過労死したんだよね。遺族である私が伝えられる3つのこと。

 

振り切って生きていくしかないのよな

 

私もどこかのあなたも残された遺族もそれでも生きていかなきゃいけないのですよ。中には死んでしまう人だっている。

例えば……なんて例を出してしまったら、また残された遺族を苦しめることにもなるので書かないのだけど、中には死んでしまう人たちだっている。

だってそうじゃない?自分が生まれた時から一緒にいた人が死んでしまう。それってあまりにもつらくないですか?

車の中で父親が燃えていたり、母親が首吊り自殺をしていたり、娘がストーカー殺人で殺されたり。

そんなことがあったら、誰だってつらいものです。死にたくなってしまうものです。悲しいことは突然起こる。そんな時に「それでも生きよう」と思える自分でいられたら良いね。で書いた「まりも宛の遺書を書いて自殺してしまった人」でもそうです。

その人は私の父親が直接知っていた人だったのだけど、「まりも父に会いに行きます」と行って、マンションから飛び降りてしまった。

 

親じゃなくても、そうやって死んでしまう人がいるのだから、親とか子供だったり、兄弟だったらつらいよね。

でも、それでもさ、やっぱり生きていくしかないのよね。どんなに惨めでも、泣いても、生きなきゃダメよ。

死ぬことはいけないよ」なんて言わない。だってさ、そんなことを言ってくる人たちって馬鹿なのかな?と私は思うから。

死ぬのがいけないということだってわかっているし、死ぬことがつらいことだってのはわかっている。全てわかった上で、それでも死にたくなってしまったのだから。

うん。だから言わないけど、生きようよ。そこに理由があるかはわからないけど、生きてみようよ。

ここにも現実と向き合うことができず、墓参りにもロクにいけず、それでも生きている奴がいるのだから。

関連記事:楽しければいいんだ、と良い意味で思えたら幸せの海への地図を手に入れたようなものだ

ABOUT ME
水瀬まりも
水瀬まりも
月間30万人が読む「テトラエトラ」というメディアブログ運営/4つの会社の経営者、役員(人材会社、広告代理店、映像、不動産)/大学生の頃に父を亡くしビジネスの世界へ/前向きに生きることができる言葉を綴っていくよ。「ぼくのとらべる。」というYouTube旅チャンネルもやってるよ。