絶望しながら生きる。これまでの私はきっとそうやって生きて来たのではないだろうか。
ふと、そう思った。
絶望しながら生きる、なんてつらいことが人間にできるのだろうか。疑問ですよね。普通はわからないと思う。
でも、私はどんなつらい状況でも生きてきた。どんなに心と身体がボロボロになっても、現実を睨みつけて、必死に生きてきた。
だから、いま絶望という名の暗闇でもがいている人にも生きて欲しい。
街を歩いた時に出会う「いつかの私」
街を歩いていると、いろんな人を見かける。ラーメン屋に入っていくだらしのないおじさん、売れないミュージシャン。
街にはいろんな夢を持った人がいて、いろんなバックグラウンドを持った人がいる。
んで、そんな人たちの中には「絶望の最中にいる人」もいるんですよ。
かつての自分が歩いているようだった。苦しんでいたり、悲しんでいたりする人は見ればわかる。
そういう人は絶望しながら生きているのです。
私は今でこそ強くなった。今でこそきちんと生きられるようになった。でも、むかしはお金がなくて、名誉も地位もなくて、あるのは「数千万円の借金」だけで…
そんな人間だったんです。絶望の中で生きる、という辛辣なタイトルにしてしまったけど、当時の私はまさにそんな状態。
大黒柱である父親が死んでしまって、そこからはひたすら全力疾走。走り続ける毎日だったんです。
街中にはいつかの私を見掛けるのです。何だかね、うん。複雑な気持ちになるよ。声をかけたくもなるけど、当時の私だって絶望の中で生きるしかないような状態だったから、誰にも話しかけて欲しくなかった。
だから、何か声をかけるわけではない。でも、やっぱり気になってしまうんですよね。
絶望しながら生きる。これは大変なことですよ。生きている心地だってしないのかもしれない。
でも、それでも私は生きていたのです。絶望しながら生きる私が昔はいた。
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絶望した時に見る景色の汚さを憂う
絶望した時に見る景色は世界が笑っているかのように、人間に冷たい。なぜだろう。いまこうやって街を歩いてみると、何でもない平和な景色が広がっているように見えるのに……。
あの当時の私は現実を睨みつけて、目を真っ赤にしながら生きていたような気がするのです。
ふとんの中でよくこんなセリフを思い浮かべていた。
「なあ、みんな。こんなにもつらい人生があるか?みんなが私でも生きるのか?」
それくらい、つらい毎日だった。希望を失ったわけではない。絶望はしていたけど、心のどこかでは光を探していた。
だから、真っ暗だったわけじゃない。でも、絶望しながら生きた末に見る景色はどこか現実味がなくて、どこか物悲しくて、私の心を苦しめたのです。
世界でグレーに見えて、自分の足がやけに重たく感じたような気がする。
絶望しながら生きる、という言葉がその当時の私を表すためにはちょうど良い言葉だったような気がする。
絶望した時にはさ、いつも見えている景色が変わってしまう。楽しいものも、楽しくないものも等しく色褪せてしまう。
そんな哀しい世界を見たことがあるだろうか。きっと1割くらいの人間は見ていると思うんです。
絶望の中で生きた経験を持った人もいるんじゃないかな。現実を睨みつけてさ、現実を嫌って、時々本屋に1人で逃げ込んだりして……。
ギリギリ自分という人間を保って、私は前を向いていた。前進していたような気がする。
トボトボと歩いていたら、古いマンションが1つ見えた。「このマンションは築何年くらいだろうか?こんな状態でも大丈夫なんだ」と思った。
そんなおんぼろマンションが私みたいで、何だかおかしくなった。父親がいない、お金もない、何も持っていない私のようで妙に笑えた。
現実なんて糞食らえと蹴散らしながら進め
当時の私にとって、現実なんてくだらないものだった。何も良いことがなかったからね。借金ばっかりあって、突然仕事をするようになって、毎日のお昼は質素なもの。
そんな生活だったから、現実なんてくだらない、と思っていた。絶望しながら生きる、という言葉が私にはお似合いだった。
でも、いまは幸せです。いまは穏やかに暮らしています。
あの頃は、心穏やかに過ごすことができるなんて思ってもいなかった。このまま現実が私の目の前を高速で過ぎ去っていって、
そのまま私の人生は何もなかったかのように終わっていってしまうのだろう、と思っていた。
でもさ、こうやって生きているんですよ。こうやって幸せな日常を送っているんですよ。
だから、みんなも絶望しながら生きる今を楽しんでみて欲しい。いや、楽しむ、なんてことはできないよね。
現実を睨みつけ、蹴散らしながら前に進んで欲しい。自分を悲劇のヒロインにしてしまったらダメだ。
もっと前を向いて、現実を睨んで、必死になって生きていけば良いのです。
絶望しながらでも良い。生きるんだ。