「自分はなんて生きる価値のない人間なのだろうか」
そんな風に思ってしまう人がいる。生きる価値のある人間と生きる価値のない人間が世の中にはいて、
自分は後者。生きる資格なんて持ち合わせていない、と思い込んでいる。
でもさ、たとえばあなたが生きる価値のない人間だったとして、
なぜ死んでしまうのだろう。生きていれば良いじゃない?
生きる価値のない人間だから何だ?
生きる価値のない人間だから、もう死にたい。
そう、言うのかな。
でもさ、そもそも生きる価値のない人間って何だよ?と思う。
人間の世界には生きる価値のある人間と生きる価値のない人間がいる。自分は目立つわけでもないし、誰かを助けられるわけでもない。
だから生きる価値のない人間なんだ。死んだ方が良いんだ。
そう思っているのかもしれない。でも、私からすれば、「なぜそんなに自分の評価を求めるのだろうか?」と感じる。
自分の評価なんて、別になくても良いじゃないですか。生きる価値のある人間かどうか?なんて実はどちらでも良いのです。
価値があるとか、ないとか気にする必要なんてないのですよ。
私だって、別に誰かの役に立っているわけではない。もしも誰の役にも立たない人間だったしたら、
私は自ら「死」を選択しなければならないのでしょうか。そんなことはないはず。
生きる価値のない人間だったとしても、私は生きて良いはずです。私も1人の人間です。暗くなる時もあれば、自暴自棄になる時もある。
言ってみれば、誰かに迷惑をかけている存在だと思う。
でも、良いんですよ。迷惑をかけても。誰かにとって邪魔な存在であろうと、誰の役にも立たない人間であろうと、
私たちは生まれて来たのだから、生きる権利があるのです。
生きて、とことん散らかしてやれば良い。
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誰かにとっての勇者なんだ
生きる価値のない人間だ、と思ってしまう時、「自分は誰からも必要とされていない」と感じたり、
「きっと嫌われている、邪魔な存在だ」と感じているでしょう。
でも、本当にそうなのだろうか?自分では生きる価値のない人間だ、と思っているかもしれないよ。
生きていても何かの価値を相手に提供することができるわけではない。
お金を渡せるわけでもない。そんな自分に何の意味があるのだろう?と考えてしまう。
でも、誰かにとっての悪者は誰かにとっての勇者だったりする。
少々わかりにくい表現を使ってしまったが、要するに「大切に思ってくれている人は必ずいる」ということ。
綺麗事に聞こえるでしょう?でも、本当は見えていないだけだと思うんだ。
たとえばとある事件を起こした殺人犯がいたとしよう。犯人は母親へ暴力を振るう父親を刺殺してしまった。
するとどうだろう。この犯人Aは夫側の親族からすれば「なんで殺したんだ」となる。
でも、母親からしたらどうだろうか?
「助けてくれてありがとう」となるのではないだろうか。
正義がどちらにあるのか?なんてわからない。それは法に判断を委ねる。
でも、生きる価値のない人間だと思っていたとしても、誰かにとっての勇者、誰かにとっての大切な人である可能性は非常に高いのです。
生きる価値のない人間だと思っているかもしれない。「もう死んだ方が良いんだ」と感じてしまう瞬間があるのかもしれない
夜、1人で考える。「私は生きて良いのか?」と。夜道を歩いてみても、誰かと話してみても、
心が晴れない。
でも、そんな人でも、生きる価値のない人間ではない。誰かにとっての支えになっている場合だってある。
あなたが生きることで、救われる人がいるかもしれないのです。誰も悲しまない?そんなことはないよ。
死んで喜ぶ人はいるかもしれない。でも、同じように悲しむ人だっている。それは、私もあなたも同じだ。
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面倒な世界で、それでも生きていく
生きる価値のない人間とか、生きる価値のある人間とか、そんなことを考えさせる世界が面倒です。
生きるのは生きるで大変だし、死ぬのは死ぬで大変。
どうすれば良いのかわからなくなることもあるよね。でも、面倒な世界だけど、それでも生きていこうよ。
生きていくにはあまりにも大変で、複雑な世界かもしれない。大切な人が目の前からいなくなることもある。
自分の命が無意味に思えてくることだってある。
でも、そんな面倒な世界を、私たちは一緒に生きているわけじゃない?
私はいまパソコンの前でこの記事を書いているけど、私もあなたも、同じ世界にいて、同じ空の下にいる。
お互い「今日も面倒くせえな!」と思いながら、毎日を過ごしているわけ。
そう思えたら、何だか同志みたいじゃない?
とてつもなく面倒な世界を生きている仲間なんだよ。
一緒に生きてみようよ。生きる価値のない人間だったとしても、この面倒臭い世界で生きてみようよ。