「メタ」に見る力

みなさんは「メタフィクション」という言葉を知ってますか?

 

【メタフィクション(Metafiction)】

フィクションについてのフィクション、小説というジャンル自体を批評するような小説のこと。それが作り話であることを意図的に読者に気付かせることで、

虚構と現実の関係について問題を提示する。例えば小説の中にもうひとつの小説について語る小説家を登場させたり、小説の内部で先行作品の引用・批評を行ったり、小説の登場人物を実在の人物や作者と対話させたり、あるいは作者自身を登場人物の一人として作品内に登場させる、といったものがある。小説の登場人物のセリフで「これは小説」などの発言もこれに類する。(ウィキペディアよりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/メタフィクション)

 

小説じゃなくて、アニメでも漫画でも映画でもいいのですが、
要は「物語」の中で「物語」を描いたり、それについて考えたりと入れ子構造になっている作品を、総じて「メタフィクション」と呼びます。

テレビアニメ『銀魂』では登場人物がしょっちゅう「作者は〜〜!」とか「原作は〜〜!」とか自分が「物語」の登場人物であることを知っているとしか思えない発言をしていて、

こういうのを「メタ発言」や「メタ演出」と呼んだりもするみたいです。

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(画像はhttp://subcultureblog.blog.fc2.com/blog-entry-6736.htmlより)

 

『銀魂』は「物語について考えている」というより「ノリ」という感じがしてしまいます(そしてそこが魅力なのでしょう)が、一見突拍子もない、ともすれば「物語」をぶち壊しかねないこの手法に真剣に取り組んでいる作品がたまにあって、結構面白いんです。

面白いだけじゃなく、こうした作品は厳しい現実社会を生き抜く知恵と勇気を与えてくれたりもします。

今日はそんな「メタフィクション」について考えてみたいと思います。

 

「物語」について物語る作家・伊藤計劃

 

伊藤計劃(いとう けいかく)という作家がいました。
アメリカでの映画化も決定した『虐殺器官』でデビューし、
大人気ゲーム『メタルギア ソリッド』のノベライズ版や、
日本SF大賞、フィリップ・K・賞特別賞を受賞した『ハーモニー』などで知られている作家です。

彼の作品は、「その小説自体が〝作品世界内の人物への語りかけ〟として描かれる場合が多」(ウィキペディアよりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤計劃)く、まさに「物語」についての「物語」と呼べるでしょう。

作家である以上、誰もがある程度は「物語」について自覚的である(べき)と思いますが、そのなかでも伊藤計劃は別格と言えます。

それは何故だったのでしょうか?

彼は、長らく闘病生活を続けながら執筆活動を行っており、最新作となるはずだった『屍者の帝国』の冒頭約30枚だけを残しこの世を去りました(これは後に友人の作家・円城塔が原稿を引き継ぐかたちで完成。伊藤計劃×円城塔の名で発表した)。

34歳という若さでした。

 

そしてわたしは作家として、いまここに記しているようにわたし自身のフィクションを語る。この物語があなたの記憶に残るかどうかはわからない。しかし、わたしはその可能性に賭けていまこの文章を書いている。

(伊藤計劃『伊藤計劃記録』−−「人という物語」より)

 

「人は死んでも物語は残る」という強い信念が、ささやかな祈りが、この文章には込められている気がします。

人よりも短い彼の生涯が、彼自身の作品に与えた影響は少なくないでしょう。

そして、そんな彼独自の哲学を表現するためには、「メタフィクション」の手法が最も適していたのだと思います。

ただ、何よりもまず、伊藤計劃の小説は第一級のエンターテインメント作品でした。

病気などせずに長生きできていたら、もっともっと素晴らしい作品をたくさん残してくれたはずだと僕は信じています。

 

「時代」を先読みする力

 

伊藤計劃の数少ない作品群のなかでも、あまり知られていないものとして『From the Nothing, With Love.』という短編小説があります。

これはスパイ・アクション映画『007』シリーズの二次創作、パロディ小説でもあり、
ジェームズ・ボンドという「ひとりの登場人物」を数作毎に「いろんな俳優が交代で演じる」『007』シリーズの構造そのものに言及した「メタフィクション」小説でもあります。

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「いろんな俳優が交代で演じ」てきたジェームズ・ボンド
(画像はhttp://rolex6098.exblog.jp/20689627/より)

 

〈『From the Nothing, With Love.』あらすじ〉

主人公は、意識をデータ化してバックアップを取る技術により、何度死んでも別の人間の脳に再生されて任務をこなしつづける英国スパイ。彼がふとしたことから自己の意識の存在そのものについて疑いを抱き、絶望に落ちてゆく過程が、ミステリでいう犯人探しのストーリーラインにうまくシンクロしながら描かれていきます。

己の意識の不在証明を眼前に突きつけられたとき、哲学的ゾンビの生き証人たる彼はどのように苦悩し、あるいはしないのか。(http://umiurimasu.exblog.jp/7055111/より)

 

要は主人公(明言されないが、明らかにジェームズ・ボンド)が「俺は一体何番目のボンドなんだ?!」というようなことを悩んでいるのです。

誰もが知ってる『007』を「メタフィクション」として再構築するなど、「物語」についてどこまでも自覚的な伊藤計劃だからこそ為せるわざでしょう。

ところが、驚きはこれだけでは終わりませんでした。

伊藤計劃の死後、本家『007』シリーズの最新作『007スカイフォール』(2012)が公開されました。

シリーズ最高傑作の呼び声も高いこの作品を劇場で見た時、僕はこのような感想メモを残しました。

 

007スカイフォール、傑作だった。ダークナイトと同じ文脈で語られながらも、二重の意味で「更新され続ける」、物語の構造についての物語。

 

つまり、伊藤計劃の小説に呼応するかのように、本家『007』もまた「007についての『007』」映画=「メタフィクション」をつくっていたのです。

コミック原作でありながら、これまでにない「9.11以降の“悪”の理論」を打ち立て大ヒットした映画『ダークナイト』(2008)を確信犯的に真似(ることで「物語」の「構造自体」を分かりやすく浮き彫りにし)、
敵役の「君の仕事は何だ?」という問いかけには「生き返ること」とボンドが答え(これはまさしく伊藤計劃が書いた「何度死んでも記憶の移植によって蘇る英国スパイ」のセリフではないだろうか?)、ボンドが自らの故郷に向かう場面では「これまでのボンドが使っていた車」を登場させながら「過去へ(行こう)」などという007シリーズのファンに向けたとしか思えないセリフを言わせ、、、。

 

『007 スカイフォール』予告編
「君の仕事は?」「生き返ること」というやりとりに「メタ演出」を感じる。

 

良くも悪くも「物語」の最先端を行くハリウッドが、007シリーズにこのようなプロットを用意し、しかも興行的に成功を収めたとなれば、
ある意味「時代がそれを求めた」ということなのかもしれません。

伊藤計劃が『From the Nothing, With Love.』を書いたのは2008年。

ハリウッドが『007 スカイフォール』を世に放ったのは2012年。

「メタフィクション」の「メタ」には、ギリシア語で、

〈高次な〜〉〈超〜〉〈〜を含んだ〉〈〜の後ろの〉

といった意味が含まれており、伊藤計劃という男は、まさしく神のように高い視点から「時代」を先読みしていたのかもしれません。

 

確かに、ちょっとしたメタ構造ではある。繰り返すが、私は「彼」であるかのように振舞い、「彼」であるかのように行動するが、そこには通常の人間が持つ「意識」なるものが完全に欠落している。だからこの文章が多少センチメンタルに見えたとしても−−−−それはセンチメンタルに記述するよう振舞っただけであって、私の内面にはいかなる意味での感傷も存在しない、筈だ。

(伊藤計劃『From the Nothing, With Love.』より)

 

「メタフィクション」の役割

 

「メタフィクション」と呼ばれる「物語についての物語」がある。

伊藤計劃という、「メタフィクション」を用いてものすごく面白い「物語」を物語る人がいた。

「だから?」って思う人もいるかもしれません。

「それって生きる上で何かの役に立つの?」と。

先に「伊藤計劃は「時代」を先読みしていた」と述べましたが、
「時代」を先読みできるということは来るべき「時代」と「戦える」ということでもあります。

フランスの映画監督にジャン=リュック・ゴダールという人がいます。

彼の『中国女』(1967)という作品では、あるシーンの途中で、
唐突に映画を作っているスタッフたちが画面に映り込んだりします。

勿論、製作陣のミスなどではなく、わざとやっているのです。

「物語」のなかにその「物語」をつくっている張本人たちを登場させる。

これもひとつの「メタフィクション」、「メタ演出」と言えるでしょう。

でも、彼はなぜそんな演出をするのでしょうか?

斬新だから? 突拍子もないことをして観客の気を引きたいから?

違います。「時代」と戦っているのです。

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時代と戦う」映画監督、ゴダール。
画像は(http://www.team-lens.com/heartstrings/2015/january/2015_0104.htmlより)

 

『中国女』に限らず、ゴダールの作品には敢えて制作者の手の内をさらすような「メタ演出」が頻繁に登場します。

それは、一歩間違えば(いや間違わなくとも)、
「映画」に没頭していた観客の集中力を途切れさせ、
「映画」と「観客」の間に埋められない溝をつくりだしてしまうでしょう。

「映画」はよく「夢」に例えられますが、せっかく気持ちよく「夢」を見ている人を強制的に目覚めさせて、「何するんだ!」と怒鳴られても仕方ありません。

でも、忘れてはならないのは、その「夢」はある種の危険性を孕んでいるということです。
その「夢」のせいで、人類は過ちを繰り返してきました。

 

ヒトラー率いるナチス・ドイツ党大会を記録した映画『意志の勝利』(1934)は、
敢えて観客を突き放すゴダールの映画とは対照的に、
「それが映画であることを忘れてしまうほどの熱狂と狂気」を映し出しています。

故に、観客がいつの間にかヒトラーに熱烈な声援を送る群衆のひとりになってしまうことだって有り得るでしょう。

監督のレニ・リーフェンシュタールが持つ才能と結びついたことにより、
『意志の勝利』はそれほどまでに恐ろしい力を持つ映画となってしまいました(ドイツでは現在も法律で一般上映が禁止されている)。

それこそ甘美な悪夢のように。

しかし、ここに「メタフィクション」を−−−−「メタ演出」を用いたらどうなるでしょう。

例えば「ヒトラーを見つめる群衆のひとりが、流れに逆らいカメラの方を向き、ペロリと舌を出す」。

観客はこれが「映画」であることを思い出すでしょう。

夢は覚めます。

「メタ」の意味を思い出してみてください。〈高次な〜〉。〈超〜〉。

高い場所から見下ろしてみれば、カリスマに見えた人物だって、狂気にとりつかれた哀れな小男かもしれません。

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『チャップリンの独裁者』の一場面。
喜劇王チャールズ・チャップリンもまた「時代」と戦っていた。

(画像はhttp://blog.livedoor.jp/yoshi44704470/archives/51631496.htmlより)

 

いつでも「メタ視点」を

 

「時代」を支配しようとする人間は、必ずその「時代」の「物語」=「メディア」を支配しようとします。

そして、自分にとって都合が良いように書き換えていくのです。

例えば「ユダヤ人は寄生動物であり、彼らを殺す以外ドイツが豊かになる方法はない」などというように。

全く根拠のないくだらない「モノガタリ」です。

でも、分かりやすい。
分かりやすい「モノガタリ」はいつだって人々を「熱狂」させてきました。

一番危険なのは、敢えて断言しますが、テレビです。

現代のテレビほど説明的で、分かりやすく、何も考えなくても一方的に情報を受け取れるメディアはありません。

説明的な字幕(聴覚障がい者向けのそれとは似て非なるもの)、扇情的な音楽や効果音等々、、、
それらは確実に視聴者から考える力、読み解く力を奪っていきます。

それ故に「時代の支配」を目論む者から真っ先に狙われるでしょう。

もう既に始まっている可能性だってあります。

 

今やメディアの寵児となったアイドルグループ・A●B48の「成長モノガタリ」、僕、苦手なんです。

私利私欲にまみれた大人たちが、金儲けのために少女たちに「モノガタリ」を与え、スキャンダルすらその一部として取り込んでしまう。

「あれもこれもシナリオの内なんだよ」と。

そんな安易な「モノガタリ」に一喜一憂しているようでは、

第二・第三のヒトラーが出てきた時に簡単に「物語」を掌握されてしまうでしょう。

本当の「物語」はいつだって能動的に読み解き、時には描き出していかなければならないものです。

 

伊藤計劃やゴダールをはじめとする、
「メタフィクション」によって「物語のなかで物語」を描くことに真剣に取組んでいる者たちは、
そうすることで「物語」を、「メディア」を監視してもいるのです。

そこには勿論、彼ら自身の作品も含まれています。

この「物語」は本当に正しいのか?
自分に都合よく受け取り手を「操作」していないか?

ストイックで誠実な「語り手」としての姿勢だと思います。

 

「メタ視点」を持つことは、厳しい現実世界を生き抜くうえでもきっと役に立ってくれるはずです。

いつでも一歩引いたところから、一段高いところから物事を見ることができれば、
複雑に思えた迷路だって案外簡単に抜け出せるかもしれません。

「ゆとり世代」というレッテル貼りに代表されるような、
「君はこういう人間なんだ」という押し付けがましい「モノガタリ」にも、

「いや、そうじゃない!」
「自分の「物語」は自分で描く!」
と勇気を持って対抗できるはずです。

そうあってくれることを、願っています。

 

それでは今日はこの辺で。